6年生の教科書に出てくる宮沢賢治作、やまなしに出てくるクラムボンとイサドの意味について調べてみました。
宮沢賢治、やまなしとは
小学6年生の国語で学習します。宮沢賢治の作品の多くは生前に発表されたものが少ない中、このやまなしは生きている間に発表された作品です。
発表する作品にこれを選んだ、ということは自信作であることと伝えたいものが込められているのかもしれません。
やまなしあらすじ
「やまなし」には三匹のカニ、魚、かわせみ、梨が登場します。谷川で生まれた2匹のカニが夏から初冬まで過ごす中での話です。5月と12月の2部構成になっています。
前半5月
2匹の子カニがクラムボンが生きていた頃の話をする。
クラムボンが死んだ話をする。
魚がやってきて、その魚をカワセミが捕っていく。
子カニのお父さんが魚が怖いところへ連れていかれたことを話す。
怖がる子カニにお父さんが樺の花を見せて慰めるけれど、子カニ達は怖い気持ちが治まりません。
後半12月
夏のキラキラした水面から様子が変わって、秋になりました。ラムネ瓶の月光が綺麗な夜のことです。
2匹の子カニが自分の出す泡の大きさを競い合います。兄の泡の方が大きいと言い合いになり、弟のカニが泣きそうになります。
遅くまで起きて泡のことで喧嘩している兄弟にお父さんが「はやく寝ないとイサドに連れて行かないぞ」と言います。
黒い大きなものが落ちてきます。子カニはカワセミだと思って怖がります。お父さんはあれはやまなしだと言います。
3匹はやまなしの後を追います。やまなしは木の枝に引っかかって止まり、月光が虹のように集まります。
子カニは食べたい様子ですが、お父さんは、もう少し待つとやまなしがひとりでに下に沈んでおいしいお酒になるから待とうと言って家に帰ります。
イサドは地名
お父さんの話からイサドは地名のようです。谷川のどこかがイサドと呼ばれている場所なんでしょう。
教科書での解説
教科書ではイサドは「作者が作った町の名前」と解説されています。
カニの世界に町があったのか?と思いますが、特徴的な場所であることには間違いなさそうです。
クラムボンについて諸説を調べた
クラムボンについて考察がいろいろとあったのでまとめます。
教科書での解説
教科書ではクラムボンについて「作者が作った言葉。意味はよくわからない。」と解説されています。教科書は潔し、よくわからないものに、あえて定義を与えないので自分で考えるしかないですね。
むしろ自分でクラムボンについて考えることでやまなしという作品を読み返してみることになりました。
クランポン(吊りかぎ)説
クラムボンは発表当初はクランポンだったという話があるので、英語のクランポン、吊りかぎという説があります。吊りかぎというのは魚を釣っていったカワセミのことでしょうか。
吊りかぎのほかにも掴む取っ手のような意味もあるのでカニの手のことかもしれません。
手に特徴がある兄弟カニとか仲間のカニの事を言っているかもしれません。
crab(クラブ、カニ)説
クラムボンはクラブ(カニ)の訛りで、やはり他のカニの呼び名であるという説です。訛り+あだ名みたいな変形ですね
泡説
冒頭にクラムボンが登場しますが、表現されている情景は泡の川底です。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
上の方や横の方は、青くくらく鋼はがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗い泡あわが流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒つぶ泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜ななめに上の方へのぼって行きました。
兄弟が泡を見て泡が浮かんで消えていく様をクラムボンと呼んでいる…という説です。
光説
季節は夏で、日光が光の網のように伸びては縮んで、魚が行き来するとその光をくちゃくちゃにする…。
こんな実態がない光の移り変わりをクラムボンと呼んでいる、という説。
母カニ説
初めから最後まで母カニが登場しません。母カニはどうしたのか?もう死んでしまっていて、兄弟たちは生前の母親が笑う姿の話をしている、という説です。
お父さんが言う、イサドも母親がいる場所ではないか、という考えもあります。
妹、トシ子説
カニの話の中にトシ子は登場しません。作者、宮沢賢治の妹がトシ子です。この作品を発表する前にトシ子が亡くなっていて、宮沢賢治に大きなショックを与えたのではないか、やまなしにはトシ子の死が投影されていて、それがクラムボンではないか、という説です。
私が考えるやまなしのテーマ
やまなしで伝えたかったことを考えると「生死」ではなかったのかな?と思います。
- カワセミが魚を捕っていくという具体的な死
- クラムボンが死んでしまった
- またカワセミが来たら怖いという死の恐れ
- やまなしが落ちてきたこと=生きる喜び
それぞれのエピソードが生死を表現しています。
どうしてクラムボンが死んでしまったのか
クラムボンが死んでしまった理由、殺された理由は兄弟にもわからない…と本文にもあります。宮沢賢治にとって妹トシ子が死んでしまった理由は分からず、若くして亡くなってしまったことは何かに殺されてしまったように感じたのかもしれません。
クラムボン=いままで死んでしまった人
宮沢賢治は身内を次々と亡くして看取る体験をしているし、一緒に長生きするはずの妹も亡くす体験をしています。宮沢賢治にとっては生死はどうすることもできない無力感を感じるものだったと思います。
やまなしに出てくるクラムボンは誰か特定の人というわけではなく「生きていて死ぬこと」そのものだったように思います。だから笑っていたのに死んでしまった、元気だったのに死んでしまうのです。
母カニの意味
やまなしには母カニが出てきません。泡を競い合うくらいの幼さが残る兄弟がいない母親を恋しがらないはずがないです。冒頭に出てきたクラムボンは母カニのことを言っているという二重の意味があるのかもしれません。
宮沢賢治にとってクラムボンは「生きていて死ぬこと」で兄弟カニにとって生きていて死んだのは「母カニ」なので同じ存在です。
イサドに行く意味
兄弟が泡の大きさで喧嘩しているとお父さんが「早く寝ないとイサドへ行かないよ」と脅します。ケンカを止めたいのいう気持ちもあったのでしょうか。
喧嘩を見て母親がいたら止めてくれたかも…と思ったかもしれません。
イサドに行くためなら喧嘩を止めるほどイサドへ行きたいようです。教科書の解説ではイサドは町の名前となっていますが、カニの世界で名前を付けるほどの場所があるでしょうか。
母カニが死んでしまった場所、お墓の場所と考えるとちょっとしっくりきます。母カニを慕う兄弟カニはイサドへ行きたいといつも思っているはずです。
方上記の泡と同じ
やまなしに出てくる泡と光は方丈記に出てくる泡と同じだと思っています。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
うたかた=泡、なので方丈記で言っている泡が消えたりできたりするのが絶え間ない様子、同じように見えても同じではない、どんどんと変化することを表現しています。
やまなしは生死がテーマになっているので登場する泡は世代が交代していく様子があらわされていると思います。
まとめ
クラムボンは「生きているものが死ぬこと」「母カニ」の二重の意味があったと思います。さらに水の中の泡ができたり消えたり、光が移ろったりすることも生きて死ぬことと通じます。
クラムボンはもっと広い意味で考えると「変化するもの」と考える事も出来るので今まで出てきている諸説すべてが正しいとも言えます。
でもクラムボンなんていうカタカナで意味のない言葉をわざわざ作り出す意味を考えた時、クラムボンというのは何なのか?を考えて欲しいという意図があったのかもしれません。
または定義することが難しい感覚、変化、諸行無常、みたいなものに名前を付けることが難しいのでクラムボンとしたのかもしれません。
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