小学6年生、やまなしのクラムボンについて解説

勉強方法
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小学6年生で学習するやまなしを大人になって読んでみると、とてもずっしりした作品だったので解説したいと思います。

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やまなしのあらすじ

クラムボンとイサドの意味を考えた記事のあらすじとほぼ同じですが再掲します。全文読むには教科書、図書館、書店のほか、Amazonで無料で配布しているので読んでみてください。

やまなしのキーワード

「やまなし」は谷川で生まれた2匹のカニが夏から初冬まで過ごす中での話です。5月と12月の2部構成になっています。

  • クラムボン
  • 子カニ
  • お父さんカニ
  • イサド
  • カワセミ
  • やまなし
  • 樺の花

幻燈とは

冒頭で2枚の幻燈という表現があります。

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。

幻燈というのは今でいうスライドです。光をあてて白い壁に映して見るものを幻燈と呼ぶようです。絵や話ではなくて幻燈…という表現は作者が作った話であることを強調しているかのようです。

やまなしは小話というよりも、実際にあった出来事の例え話だと感じます。

青という色

冒頭の「青い幻燈」の中に出てくる青という色。宮沢賢治にとって青は美しい色であると同時に恐ろしい情景を青白いと表現しています。

宮沢賢治の妹も青い性質があると言っています。

やまなしは2部構成

やまなしは5月と12月の2部構成になっています。5月と12月で内容がわかれています。2枚の、と強調されているところから内容がまったく違う、または対になっています。

前半5月

2匹の子カニがクラムボンが生きていた頃の話をする。

クラムボンが死んだ話をする。

魚がやってきて、その魚をカワセミが捕っていく。

子カニのお父さんが魚が怖いところへ連れていかれたことを話す。

怖がる子カニにお父さんが樺の花を見せて慰めるけれど、子カニ達は怖い気持ちが治まりません。

後半12月

夏のキラキラした水面から様子が変わって、秋になりました。ラムネ瓶の月光が綺麗な夜のことです。

2匹の子カニが自分の出す泡の大きさを競い合います。兄の泡の方が大きいと言い合いになり、弟のカニが泣きそうになります。

遅くまで起きて泡のことで喧嘩している兄弟にお父さんが「はやく寝ないとイサドに連れて行かないぞ」と言います。

黒い大きなものが落ちてきます。子カニはカワセミだと思って怖がります。お父さんはあれはやまなしだと言います。

3匹はやまなしの後を追います。やまなしは木の枝に引っかかって止まり、月光が虹のように集まります。

子カニは食べたい様子ですが、お父さんは、もう少し待つとやまなしがひとりでに下に沈んでおいしいお酒になるから待とうと言って家に帰ります。

やまなしのテーマは生死

やまなしで伝えたいテーマは生死です。子カニの目の前でカワセミが魚を狩っていくと死を身近に感じるようになります。クラムボンが死んでしまったことは死んだ理由も分からず、曖昧な死だった子カニ達ですが、魚の死は目の前で起きたのでショックを受けたようです。

前半のクラムボンの意味

クラムボンは「生きているものが死ぬ」イメージ、「物事が変化していく」イメージです。詳しくはクラムボンの意味の記事を読んでみてください。

クラムボンの話をしている子カニ達はまだ生死というものを曖昧にしか分かっていないけれど、死んでしまった理由が分からないけれど、生きていたころの情景が離れない様子です。

母カニがでてこない

やまなしには母カニが出てきません。幼い子カニには本来寄り添っているはずなので、すでに死んでしまっていると考えています。クラムボンは母カニであるという説はここからきているようです。

魚とカワセミは身近な死

次に起こる出来事が子カニ達に死を身近なものにします。目の前で魚がカワセミに獲られます。子カニ達はどうすることもできず、うずくまって震えてしまいます。

クラムボンの死の時は生きている時の情景が離れなかったのに、魚の死では死は恐ろしいこととして印象づいたようです。

樺の花とは

死をおびえる子カニ達にお父さんが樺の花を見せて慰めようとします。2匹は樺の花に構っている余裕もなく、おびえたままです。

樺の花は白樺の花だったり、山桜の花びらだったりと色々解釈できます。ともかく花が流れてきます。魚の死の後に流れる花、弔いの花の意味もあるかもしれません。

また花は生きている者たちの希望、慰めになるもののイメージかもしれません。

泡の競争

子カニ達は秋になって大きくなっています。兄弟で泡の大きさを競い合っています。体も大きくなりましたが競争するほど自意識も大人に近づいています。弟のカニは自分の方が劣っていると感じて自尊心が傷つけられて泣きそうになります。

幼いころの無邪気さは無くなり、大人の考え方に近づいています。

ケンカを止めても行きたいイサド

お父さんカニが兄弟達に早く寝ないとイサドに連れて行かない、と言います。イサドに行くためなら寝るくらい行きたいところのようです。

イサドは地名や町という解釈があります。町に楽しみに行くならはしゃいでいると思いますが、そんな様子はないです。どうしても行かなければいけない用事がある場所なら早く寝ているはずです。

私はイサドとはお母さんカニが亡くなった場所、お墓のような場所だと思います。

黒いものはカワセミ?

黒いものがトブンと落ちてきます。子カニ達は落ちてきたのはカワセミではないかとおびえます。これは死を恐れて暮らしている様子をあらわしています。子カニ達にとって死は身近なものになっています。

やまなしを追いかける

流れていくやまなしを3匹は追いかけます。踊るように追いかける…という描写があるので嬉しさ、ワクワクなどポジティブな感じが伝わります。

やまなしは生きる希望です。良いものに違いない、と期待しながら無我夢中で追いかけるものです。いい匂いがしてすごく良いものなので追いかける元気が出てきます。

お酒になるまで待つ理由

やまなしが発酵するとお酒になります。発酵というのは微生物がやまなしをおいしく腐らせているわけです。ここでも生死が表現されます。

生きものは死んだあと、ただ死ぬのではなく何か別のものに変わっていく思想が現れています。

2部構成の理由

やまなしが2部に分かれているのは、ひとつが絶望と死、もうひとつが希望と生を表しています。

5月ではクラムボンと魚がどうすることも出来ずに死んでいきます。無力感が残り、死を恐れるしかできませんでした。

さっきまで生き生きしていたものが次の瞬間には消えていく、そのことに理由が見つからない、どうすることもできない感覚が織り込まれています。

12月では恐れていたカワセミだと思ったら美味しいやまなしでした。死を恐れて生きている中でも希望があり、生きる喜びがあるということをあらわしています。

やまなしの匂いは生きている中での良いものの気配、それを追っていくときの喜びが「踊るように追いかける」に表現されています。

宮沢賢治の死生観

やまなしをすぐに食べずに発酵してお酒になるのを待つ、というエピソードから宮沢賢治の死生観が表現されています。

やまなしをすぐに食べてしまうとやまなしはすぐに無くなったかのように見えます。一度発酵させて腐らせることでやまなしは一度死んだことになります。死んだけれどお酒として生まれ変わってカニ達に食べられます。

クラムボンという言葉があらわす「生きているものが死ぬ」ことの意味が、死んだ後も別の命につながっていくという答えになっています。

どうして「やまなし」がタイトルなのか

やまなしのタイトルは子カニでもクラムボンでも良いような?と思いましたが、やまなしじゃなければいけない理由を考えてみました。

クラムボンがタイトルだった場合、話自体が生と死だけで終わってしまいます。宮沢賢治はこれを書いた時期に妹を無くしていて生と死に否が応でも向き合っていた頃です。

ただ生きていたものが死ぬ、それだけではこれから先、生きていくのが辛いと感じたのではないでしょうか。だからこそ12月で希望を書いています。

死んだ者はただ死んだのではなく、何かの栄養になる、何か別の命につながっていく、生きている間も死は恐ろしいものだけど希望があり、それを追う喜びがある。

やまなしというタイトルは希望であり、次の命に繋がる象徴だったのだろうと思います。

まとめ

やまなしは宮沢賢治が生と死に向き合った話です。死ぬことの意味、理由を考えた時、次の命に繋がる救いが「やまなし」だったと思います。

この話が幻燈である、と断りがあることから、自分の死生観を表現したものであることを強調しているかのようです。明かりを消せば消えてしまう幻燈は曖昧さを残しています。

実際には死んだらどうなるのか分からない、そういった不確かさをあらわしているようです。

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